氷はなぜ滑る?
表面の水分子が動きやすく、潤滑剤のように働くためと考えられています。ただ、詳しい仕組みはいまも議論中です。
冬の朝、凍った道で思わず足をとられる。スケートリンクでは、細い刃に乗った選手が、すいすいと氷の上を滑っていく。氷が滑りやすいことは、誰もが体で知っています。
ところが、「なぜ滑るのか」と聞かれると、答えは意外なほど定まっていません。学校で「圧力で氷が溶けるから」と聞いた人もいるかもしれませんが、この説明は、いまではほぼ否定されています。19世紀から続くこの問題は、2020年代になっても新しい説が発表されるほどの難問なのです。
「圧力で溶ける」説の弱点
古くから知られていたのは、圧力をかけると氷の溶ける温度(融点)が下がる、という性質です。19世紀半ば、のちのケルビン卿の兄ジェームズ・トムソンがこの効果を唱え、1886年にはアイルランドの物理学者ジョン・ジョリーが、スケートの刃の下の氷は圧力で溶け、その水が潤滑剤になるのだと説明しました。分かりやすいこの説は、長く教科書にも載ってきました。
しかし、数字を当てはめると無理が出てきます。氷の融点は、1気圧ぶん圧力が増えるごとに約0.0072℃しか下がりません。体重50キロほどの人が、幅1ミリ、長さ15センチの刃で立ったとしても、融点が下がるのはわずか0.2℃あまり。ところが、人はマイナス10℃やマイナス20℃の氷の上でも平気で滑ります。圧力だけで氷を溶かすには、とてつもない重さが必要になってしまうのです。
次の候補は「摩擦熱」
1939年、物理学者のフランク・ボーデンとT・P・ヒューズは、スイス・アルプスのユングフラウヨッホ近くの氷の洞窟で実験を行い、別の説明を打ち出しました。物が氷の上を動くと摩擦で熱が生じ、その熱で表面がわずかに溶けて水の膜ができる、という「摩擦熱」説です。
速く滑るスケートやスキーでは、この効果が確かに働いていると考えられています。ただ、摩擦熱は動いているときにしか生まれません。止まった状態から一歩踏み出した瞬間にも氷が滑りやすいことは、これだけではうまく説明できませんでした。
表面は、もともと「ゆるんで」いる
もうひとつの考え方は、さらに古く、マイケル・ファラデーにさかのぼります。1850年ごろ、ファラデーは、溶けかけた氷どうしを触れ合わせるとくっついてひとつになることに注目し、氷の表面には、液体に近い薄い層があるのではないかと考えました。
氷の内部の水分子は、まわりの分子としっかり手をつないで結晶をつくっています。けれども、いちばん外側の分子は、つなぐ相手が少ないぶん、結びつきがゆるくなります。2018年、オランダとドイツの研究チームは、0℃からマイナス100℃までの温度で摩擦を測る実験と分子の観察を組み合わせ、表面の水分子が転がるように動き回れることこそが滑りやすさの正体だと発表しました。
この研究によると、氷がいちばん滑りやすいのはマイナス7℃前後。それより暖かいと氷がやわらかくなって刃が沈みこみ、逆にマイナス100℃近くまで冷えると、表面の分子が動きにくくなって、ざらざらした摩擦の大きい面に変わります。スピードスケートのリンクの氷が、ちょうどこのくらいの温度に保たれるのは、偶然ではなさそうです。
決着はまだついていない
2025年には、ドイツのザールラント大学のチームが、コンピューターによるシミュレーションをもとに新しい説を発表しました。靴底などの分子がもつわずかな電気の偏りが、氷の表面の結晶の並びを乱し、規則正しさを失った薄い層をつくる。それが潤滑の役目を果たすのであって、圧力や摩擦の影響は大きくない、というものです。この計算では、マイナス40℃を下回っても薄い膜はできるものの、はちみつより粘り気が強くなり、ほとんど滑らなくなるといいます。
一方で、圧力、摩擦熱、表面の層という複数の仕組みが、条件によって同時に働いているとみる研究者もいます。どの説がどれだけ効いているのか、専門家のあいだでもまだ意見は一致していません。毎日のように目にする氷の表面には、いまも解き明かされていない謎が残っているのです。