横綱はいつ生まれた?
綱を締める免許は1789年に始まり、正式な地位になったのは1909年です。
1789年
大相撲の本場所で、幕内の取組の前に行われる横綱土俵入り。真っ白な綱を腰に締めた横綱が、四股を踏み、ゆっくりとせり上がる姿には、ほかの力士にはない重みがあります。横綱は番付の最高位で、一度昇進すれば、成績が振るわなくても大関に落ちることはありません。
ところが、この「横綱」という言葉は、もともと地位の名前ではありませんでした。横綱とは、文字どおり、腰に締める「綱」そのもののことだったのです。
最高位は「大関」だった
江戸時代の番付で、いちばん上に書かれていた地位は大関でした。横綱という地位は、番付のどこにも存在しなかったのです。
では、横綱とは何だったのか。それは、とくに優れた大関だけに許された、白い麻の綱を腰に締めて土俵入りをする資格でした。綱は神社のしめ縄と同じく清めの意味をもつとされ、紙垂(しで)と呼ばれるジグザグの白い紙を垂らします。綱を締めた力士は、土俵を清める特別な存在と見なされたのです。
この資格を与えたのは、相撲の故実(しきたり)を伝える家として権威をもっていた、肥後熊本の吉田司家でした。寛政元年(1789年)、吉田司家は江戸の大関、谷風梶之助と小野川喜三郎の二人に横綱の免許を授けます。これが記録に残る最初の横綱免許で、事実上の横綱制度の始まりとされています。
谷風は身長が約189センチあり、公式記録で63連勝を残した江戸相撲の大スターでした。代々の横綱は「初代・明石志賀之助」から数えられ、谷風は第4代とされています。けれども、明石をはじめとする最初の3人は、実在や免許をたしかめる記録に乏しく、伝説的な存在と見なされています。実質的な初代横綱は谷風というのが一般的な見方です。
番付に「横綱」と書かれた日
その後も長いあいだ、横綱はあくまで大関の中の称号でした。番付に「横綱」の文字が初めて登場したのは、明治23年(1890年)5月場所のことです。
きっかけは、第16代横綱・西ノ海嘉治郎の不満でした。西ノ海はこの年に横綱の免許を受けましたが、大関の枠にはすでに別の二人が座っていたため、枠の外に名前を張り出す「張出大関」として扱われることになりました。最高の栄誉を得たのに張出とは納得がいかない、と西ノ海が異を唱えた結果、番付に初めて「横綱」と明記されたのです。以後、横綱は番付に書かれるのが慣例となっていきます。
そして明治42年(1909年)2月、相撲の規約が改められ、横綱は正式に力士の地位として定められました。この年の6月には、東京・両国に最初の国技館が開館しています。このとき横綱の座にあったのは、常陸山谷右衛門と2代目梅ヶ谷藤太郎の二人でした。
委員会が選ぶ時代へ
戦後の1950年には、横綱審議委員会が発足します。それまで横綱の誕生には吉田司家の免許が深く関わっていましたが、この年からは、相撲協会が外部の有識者でつくる委員会の意見を聞いて横綱を決める仕組みになりました。この仕組みで最初に昇進したのは千代の山です。
昇進の目安は、昭和33年(1958年)以降、「大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績」とされています。もっとも、はっきりした数値の基準があるわけではなく、成績に加えて、横綱にふさわしい品格も求められます。
新しい横綱が誕生すると、その力士の部屋では「綱打ち」が行われます。米ぬかでもみほぐした麻を、芯になる銅線や木綿とともに力士たちがより合わせ、一本の綱に仕上げるのです。江戸時代の綱は太さ5センチほど、重さ2キロほどの細いものだったといいますが、明治以降しだいに太くなり、平成には20キロに達した綱もありました。ただし横綱が綱を締めるのは土俵入りのときだけで、取組そのものは締め込みひとつで戦います。
落ちない地位の重み
横綱には降格がありません。1909年に正式な地位となって以来、横綱から大関に落ちた力士は一人もいません。成績が振るわなくなれば、待っているのは引退だけです。横綱審議委員会は、不振が続く横綱に対して「激励」「注意」「引退勧告」を出すことがあります。下がる道がないという厳しさが、この地位の重みを支えているともいえます。
2025年に昇進した大の里は、第75代の横綱にあたります。谷風と小野川が免許を受けてから236年。土俵入りで締められる一本の綱は、江戸の昔から変わらず受け継がれてきたのです。