天ぷらはポルトガルから来た?
衣揚げの料理法と名前はポルトガル由来とされます。揚げ物自体はそれ以前からありました。
えびや季節の野菜に薄い衣をまとわせ、油の中でからりと揚げる。天ぷらは、寿司やそばと並んで、和食を代表する料理のひとつです。海外の日本料理店でも「TEMPURA」の文字はすっかりおなじみになりました。
でも、「てんぷら」という言葉を声に出してみると、どこか不思議な響きがあります。「てん」も「ぷら」も、ほかの日本語ではあまり聞かない音の組み合わせです。それもそのはずで、この名前は海の向こうから来た、という説が有力なのです。
南蛮船が運んできた揚げ物
16世紀の半ば、ポルトガルの船が日本にやってくるようになりました。当時の日本人は彼らを「南蛮人」と呼び、鉄砲やキリスト教とともに、パンやカステラなど、さまざまな食べものが伝わりました。
そのなかに、小麦粉と卵の衣をつけて油で揚げる料理法がありました。16世紀の終わりごろ、長崎でポルトガルの宣教師たちから伝わったとされています。ポルトガルには、いまでも「ペイシーニョシュ・ダ・オルタ(畑の小魚)」という、さやいんげんに衣をつけて揚げた料理があります。カトリックの信者が肉を断つ期間にも食べられてきた料理で、天ぷらの親戚ともいわれます。
こうした料理をもとに生まれたのが、長崎の郷土料理として知られる「長崎天ぷら」です。衣に砂糖や酒で味をつけてあり、何もつけずにそのまま食べるのが特徴です。初期の天ぷらは、こうした味つきの衣だったと考えられています。
名前の由来は「斎日」か「調味料」か
「てんぷら」という名前の語源には諸説ありますが、ポルトガル語に由来するとみる説が多数を占めます。
よく知られているのは、ポルトガル語の「テンポラス(têmporas)」から来たという説です。これはカトリックで、季節ごとに肉を断って祈る「斎日(さいじつ)」を指す言葉で、もとはラテン語の「時」を意味する言葉に由来します。肉の代わりに魚や野菜の揚げ物を食べる日だったことから、その名前が料理に移ったというわけです。
もうひとつ有力なのが、「調味料」や「味つけ」を意味する「テンペロ(tempero)」、あるいは「味をつける」という動詞「テンペラール(temperar)」から来たという説です。英語のオックスフォード辞典は、この「テンペロ」説をとっています。ほかにも「寺」を意味する「テンプロ(templo)」から来たという説などがあり、決着はついていません。
文献に「てんふら」という名前が初めて登場するのは、1669年に刊行された『食道記』という本だとされています。
揚げ物は南蛮人より前からあった
ただし、「日本の揚げ物はポルトガル人が伝えた」と考えるのは早とちりです。
奈良時代から平安時代にかけて、中国の唐から「唐菓子(からくだもの)」と呼ばれるお菓子が伝わりました。小麦粉などの生地を形づくって油で揚げたもので、京都にはいまも、その流れをくむ揚げ菓子が残っています。さらに鎌倉時代以降には、禅寺の精進料理を通して、野菜を油で揚げる調理法も広まっていきました。
つまり、油で揚げる料理そのものは、南蛮人が来るずっと前から日本にありました。ポルトガルから伝わったのは、小麦粉と卵の衣をまとわせて揚げるスタイルと、「てんぷら」という名前だった、と考えるのがよさそうです。じつは料理法が先にあったために、江戸時代の料理書でも、いろいろな揚げ物が「てんぷら」と呼ばれていました。いまでも西日本の一部で、魚のすり身を揚げたさつま揚げを「天ぷら」と呼ぶのは、その名残だといわれます。
家康は天ぷらで死んだのか
天ぷらにまつわる話として有名なのが、徳川家康の死です。家康は鯛の天ぷらを食べて食あたりを起こし、それがもとで亡くなった、というものです。
家康が1616年(元和2年)の旧暦1月21日に、鯛の揚げ物を食べたのは事実とされます。京都で評判の新しい料理として、豪商の茶屋四郎次郎が紹介したもので、鯛を榧(かや)の油で揚げ、すりおろしたニラをかけたものでした。ただし衣はなく、いまでいえば唐揚げに近い料理です。
そして家康が亡くなったのは、それから3か月近くたった旧暦4月17日のことでした。食あたりが原因というには、間が空きすぎています。記録に残る、急にやせて腹に大きなしこりができたという症状から、いまでは胃がんが死因だったとする説が有力です。天ぷらは、ぬれぎぬを着せられていたのかもしれません。