相撲の土俵はなぜ丸い?
はっきりした記録はなく諸説あります。江戸時代に丸い土俵が定着しました。
4.55m
ボクシングのリングは四角く、柔道やレスリングの試合場も四角が基本です。格闘技の舞台はたいてい角ばっているのに、相撲の土俵だけは、きれいな円を描いています。
考えてみれば不思議な話です。なぜ相撲は丸い土俵で戦うのでしょうか。歴史をたどってみると、土俵は最初から丸かったわけではなく、かつては四角い土俵さえ存在したことがわかります。
人垣が土俵だった時代
古くは、相撲に土俵はありませんでした。見物人が取り囲んでつくる人の輪、いわゆる「人方屋(ひとかたや)」の中で取組が行われ、相手を人垣の中へ押し出したり、倒したりすれば勝ちだったとされています。
やがて江戸時代の初め、17世紀の寛文年間ごろには、4本の柱を立てて縄などで囲い、相撲場を区切る形が現れます。そして、俵を円形に並べた「土俵」が確立するのは、江戸の勧進相撲が盛んになった貞享年間(1680年代)ごろのことと考えられています。
一方で、丸い土俵だけが唯一の形だったわけではありません。盛岡藩を中心とする「南部相撲」では、一辺が約4.5メートルの四角い土俵が使われていました。記録によれば、延宝4年(1676年)に盛岡で四角い土俵の勧進相撲が開かれており、この地方では昭和の初めごろまで四角い土俵が残っていたといいます。それでも18世紀の半ばからは、江戸生まれの丸い土俵が全国の主流になっていきました。
二重の円から、いまの姿へ
丸い土俵も、ずっと今と同じ形だったわけではありません。昭和の初めまでは、内側と外側に二重の円を描く「二重土俵」が使われていました。
転機は1931年(昭和6年)4月の天覧相撲でした。このとき内側の円が取り払われ、直径15尺、約4.55メートルの一重の土俵に改められます。力士の体が大きくなってきたことに対応するためとも、狭い土俵では勝負があっという間についてしまうので取組を長く見せるためともいわれます。終戦直後の1945年11月場所では、直径を16尺に広げたこともありましたが、わずか1場所で元に戻されました。
土俵の上の屋根にも変化がありました。かつては土俵の四隅に柱を立てて屋根を支えていましたが、観客から取組が見えにくいことなどから、1952年(昭和27年)の秋場所から柱が廃止され、天井から屋根を吊り下げる現在の形になりました。
角がない、ということ
では、肝心の「なぜ丸いのか」。実のところ、それをはっきり説明する記録は残っておらず、いくつかの説が語られています。
ひとつは、人方屋の名残という説です。人が自然に取り囲めば輪になります。その輪の形が、のちに俵に置き換えられたのではないか、という考え方です。もうひとつは、公平さに注目する説です。四角い土俵では、中心から端までの距離が方向によって違い、角に追い込まれた側が不利になります。円であれば、どの方向へ押しても土俵際までの距離は同じです。また、四角い土台の上に丸い土俵が乗る姿を、「天は丸く、地は四角い」という古い中国の宇宙観になぞらえる説明もあります。
角のない円は、逃げ場も追い詰める場所もない、真っ向勝負の舞台です。
丸い土俵をよく見ると、東西南北の4か所だけ、俵が少し外側にずらして埋められています。これは「徳俵」と呼ばれ、屋外で相撲をとっていた時代に、雨水を外へ流すための工夫だったと伝えられています。ここで踏みとどまれば、ほんの少し得をする。名前の由来もそこにあります。
場所ごとに生まれ変わる土俵
土俵は、一度作ったら終わりではありません。本場所のたびに、呼出(よびだし)と呼ばれる人たちが総出で、およそ3日がかりで土俵を築き直します。これを「土俵築(どひょうつき)」といいます。両国国技館では、土台を残して表面を作り直しますが、地方場所では一から築き上げます。
できあがった土俵では、初日の前日に「土俵祭」が行われます。立行司が祭主となって、場所中の安全や五穀豊穣を祈る神事です。土俵は、単なる試合場ではなく、場所のたびに清められる特別な場所でもあるのです。