柔道の帯の色の由来は?
白と黒の帯は嘉納治五郎が始め、色とりどりの帯はのちにヨーロッパで広まりました。
「黒帯」という言葉は、柔道を離れても「その道の上級者」という意味で使われるほど、強さの象徴になっています。白帯で入門し、稽古を重ねて黒帯を締める。その道のりは、多くの人が思い描く武道の物語そのものです。
けれども、帯の色で実力を示すという仕組みは、昔からあったわけではありません。柔道の歴史をひもとくと、白と黒の帯は明治の日本で生まれ、黄色や緑、青といった色の帯は、遠く海を渡ったヨーロッパで育ったものだとわかります。
段位と黒帯を考えた人
柔道は、嘉納治五郎が1882年(明治15年)に東京で講道館を開いたことに始まります。嘉納は、さまざまな柔術の流派を学んだうえで、それらを整理し、心身を鍛える教育としての「柔道」をつくり上げました。
その翌年の1883年、嘉納は弟子の西郷四郎と富田常次郎に「初段」を与えます。囲碁や将棋の世界で使われていた段位の考え方を、武道に取り入れたものとされ、これが武道における段位制度の始まりといわれています。
そして1886年ごろ、段位を持つ「有段者」に黒い帯を締めさせるようになりました。ただし、当時の弟子たちはまだ着物姿で稽古をしており、この黒帯も、いまのような細い帯ではなく、着物に締める幅の広い帯だったと考えられています。現在に近い白い稽古着と、有段者は黒、それ以外は白という帯の区別ができあがったのは、1907年ごろのことです。
汚れて黒くなった、は本当?
黒帯の由来として、よく語られる話があります。最初はみな白い帯を締めているが、何年も稽古を続けるうちに汗と汚れで帯がだんだん黒ずんでいく。だから黒い帯は、長い修業のあかしなのだ、というものです。
いかにもありそうな、味わい深い話です。けれども、これを裏づける歴史的な記録は見つかっておらず、後からつくられた俗説だと考えられています。黒帯は、嘉納が有段者のしるしとして意図して定めたものでした。
色帯はロンドンとパリから
では、黄色や緑、青といった色帯はどこから来たのでしょうか。その舞台は、日本ではなくヨーロッパでした。
イギリスでは、1918年に小泉軍治がロンドンに柔道クラブ「武道会(ブドークワイ)」を開きます。このクラブの記録には、1926年の演武会で色帯が使われたことが残っています。さらに1930年代には、フランスに渡った川石酒造之助が、白・黄・橙・緑・青・茶・黒と、段階ごとに帯の色を細かく分ける仕組みを広めました。川石は1928年にロンドンの武道会を訪れており、そこで色帯の考え方に触れたのではないか、とみられています。
なぜヨーロッパで色帯が好まれたのか。理由のひとつとして、昇級の目標を細かく区切ることで、柔道を始めたばかりの人たちのやる気を保ちやすかったことがよくいわれます。この色帯の仕組みは、のちに空手などほかの武道にも広がっていきました。
白と黒は日本で、虹のような色の帯はヨーロッパで生まれました。
一方、日本国内では、白帯・茶帯・黒帯を中心とした、比較的シンプルな区分がいまも一般的です。講道館では、さらに上の六段から八段は紅白の帯、九段と十段は紅色の帯を締めることができると定められています。
帯だけでなく、柔道着にも色が
色の話は、帯だけにとどまりません。いまのオリンピックや国際大会では、一方の選手が白、もう一方が青の柔道着を着て戦います。
青い柔道着を提案したのは、1964年の東京五輪で金メダルを獲得したオランダのアントン・ヘーシンクだとされています。観客や審判が両選手を見分けやすくするためでした。柔道着は白であるべきだという反対もあって議論は長引きましたが、1997年に国際柔道連盟が導入を決め、1990年代の終わりから国際大会で使われるようになりました。
白い稽古着に黒い帯という明治の姿から、色帯、そして青い柔道着へ。柔道は世界に広がるなかで、少しずつ色を増やしてきたのです。