「印象派」は悪口から生まれた?
はい。1874年、批評家ルイ・ルロワが展覧会をからかう記事で使った言葉が始まりです。
1874年
光があふれる水辺、木漏れ日の中で踊る人々、霧にかすむ港。モネやルノワール、ドガといった「印象派」の画家たちの絵は、いまでは世界中の美術館で人気を集め、展覧会には長い行列ができます。
けれども、この「印象派」という呼び名が生まれたとき、それはほめ言葉ではありませんでした。きっかけは、ある展覧会を皮肉たっぷりにからかった新聞記事だったのです。
サロンに背を向けた画家たち
19世紀のフランスで画家として認められるには、国の美術アカデミーの会員らが審査する公式の展覧会「サロン」に入選することが、ほとんど唯一の道でした。入選すれば絵は売れやすくなり、落選すれば買い手が離れていく。サロンの審査は、画家の生活を左右するものだったのです。
ところが、筆の跡を残したまま、戸外の光の移ろいを素早く描き留めようとするモネたちの絵は、たびたび落選の憂き目にあいました。そこで彼らは、自分たちの手で展覧会を開くことを決めます。1873年の暮れ、モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、シスレー、モリゾらは、「画家、彫刻家、版画家等の共同出資会社」を立ち上げました。
1874年4月15日、パリのキャピュシーヌ大通り35番地、写真家ナダールのスタジオだった建物で、その第1回展が幕を開けます。カタログに名前が載った芸術家は30人。会期をサロンの開幕より2週間早くしたのは、サロンに落ちた絵を集めた「落選展」とは違うことを示すためだったといわれます。
「壁紙の模様のほうが、まだ仕上がっている」
出品作の中に、モネが故郷ル・アーヴルの港を描いた一枚がありました。朝もやの中、オレンジ色の太陽が水面に光の筋を落とし、小舟が黒い影となって浮かんでいます。カタログに載せる題名を聞かれたモネは、ル・アーヴルの眺めとしては通用しないから「印象」とつけてくれ、と答えたと語っています。こうして題名は『印象・日の出』になりました。
4月25日、風刺新聞『ル・シャリヴァリ』に、批評家ルイ・ルロワの記事が載ります。題は「印象派の展覧会」。記事は、ルロワが架空の保守的な風景画家ジョゼフ・ヴァンサンを連れて会場を回るという、対話仕立ての戯文でした。
『印象・日の出』の前に来た二人は、題名を見て、印象を受けたのだから何か印象があるに違いない、と皮肉ります。そして、こうこき下ろすのです。
描きかけの壁紙の模様だって、この海の絵よりはまだ仕上がっている。
ルロワは、モネの絵の題名をそのまま借りて、出品者たちをひとまとめに「印象派」と呼び、からかったのでした。
悪口を旗印に
展覧会は、商業的には失敗に終わりました。1か月の会期中の入場者は3500人ほど。同じ年のサロンには約40万人が訪れたといわれますから、その差は歴然です。
それでも画家たちはくじけませんでした。1886年までに合計8回の展覧会を開き、からかい半分でつけられた「印象派」という名前を、自分たちを表す言葉として受け入れていきます。1877年の第3回展の会期中には、批評家ジョルジュ・リヴィエールが『印象派(ランプレッショニスト)』という名の週刊の冊子まで発行しました。
もっとも、全員がこの名前を気に入っていたわけではありません。たとえばドガは、色彩よりもデッサンを重んじる画家で、「印象派」という呼び名を嫌っていたといわれます。それでも名前はひとり歩きを始め、新しい絵画の運動そのものを指す言葉として定着していきました。悪口として生まれた名前が、美術史を代表する言葉になったのです。