ショパンの心臓はどこにある?
ポーランドの首都ワルシャワ、聖十字架教会の柱の中です。体はパリに眠り、心臓だけが故郷へ帰りました。
2064年
ポーランド生まれの作曲家フレデリック・ショパンは、1849年10月17日、パリで亡くなりました。39歳でした。その亡きがらは、いまもパリのペール・ラシェーズ墓地に眠っていて、墓前には花が絶えません。
けれども、その墓に彼のすべてが眠っているわけではありません。ショパンの心臓だけは、直線距離でおよそ1400キロメートル離れたポーランドの首都ワルシャワにあります。いったい、なぜでしょうか。
二度と帰れなかった故郷
ショパンは1810年にワルシャワ近郊で生まれ、ワルシャワで音楽を学びました。1830年、20歳のときに演奏家として成功するため故郷を離れますが、その直後、ポーランドではロシアの支配に抵抗する蜂起が起こり、やがて鎮圧されます。ショパンはウィーンを経てパリに移り住み、二度とポーランドの土を踏むことはありませんでした。
パリでは作曲家、ピアニスト、ピアノ教師として名声を得ますが、ポーランドの民族舞踊をもとにしたマズルカやポロネーズを生涯書き続けました。故郷への思いは、作品の中にあふれていたのです。
「生き埋めにしないでほしい」
ショパンは長く病に苦しんでいました。死の少し前、彼は紙切れに、「この土が私を窒息させるだろうから、どうか私の体を開いてほしい。生きたまま埋められないように」という意味の言葉を書き残しています。当時のヨーロッパでは、死んだと誤って判断され、生き埋めにされることを恐れる人が少なくありませんでした。
その願いどおり、死後に医師のジャン・クリュヴェイエが解剖を行い、心臓を取り出しました。心臓はアルコール、おそらくコニャックに浸されて保存されます。そして、故郷の教会に葬ってほしいというショパンの望みをかなえるため、姉のルドヴィカが1850年の初めに、心臓をワルシャワへ持ち帰りました。国境を越えるとき、心臓の入った容器をマントかスカートの下に隠していたと伝えられています。
教会の柱の中で
ワルシャワに戻った心臓は、しばらく家族のもとに置かれたのち、1879年、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められました。当時のポーランドはロシアの支配下にあったため、移す作業はひそかに行われたといいます。翌1880年には柱に記念の碑が取り付けられました。
碑には、新約聖書の一節「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」が刻まれています。ポーランド語で「心」と「心臓」は同じ言葉。故郷を宝のように思い続けたショパンに、これほどふさわしい言葉はないでしょう。
戦火をくぐり、2014年に再び光の下へ
心臓は、その後も平穏だったわけではありません。第二次世界大戦中の1944年、ワルシャワ蜂起のさなかに、ドイツ軍の将校によって教会から持ち出されました。終戦を前にワルシャワの大司教の手に返され、ショパンの命日にあたる1945年10月17日、式典とともに柱へ戻されています。
2014年4月14日には、教会関係者や科学者らがひそかに容器を取り出し、ふたを開けずに外から観察しました。写真を撮り、容器を封ろうで封じ直したうえで、調査を行ったことが公表されたのは5か月後のことです。2017年にアメリカの医学誌に発表された結果によると、心臓には結核による心膜炎の跡がみられ、これが死因だった可能性が高いとされました。次の調査は、50年後の2064年まで行われない予定です。