ベートーヴェンは耳が聞こえないのにどう作曲した?
頭の中で音を正確に思い描く力と、紙の上で練り上げるスケッチで作曲を続けました。
1802年
ベートーヴェンが耳の病に苦しんでいたことは、よく知られています。それでも彼は、聴力が衰えていくなかで、交響曲第9番や晩年の弦楽四重奏曲といった傑作を次々に書き上げました。
耳が聞こえなくなっていく作曲家は、どうやって音楽を作ったのでしょうか。その答えを探っていくと、ベートーヴェンの難聴が、ある日突然すべての音を奪ったわけではなかったこともわかってきます。
20代後半に始まった異変
ベートーヴェンが耳の異常を感じはじめたのは、20代の後半だったと考えられています。後年、知人に語ったところでは、始まりは1798年ごろでした。1801年には、故郷ボンの友人ヴェーゲラーらにあてた手紙で、耳の不調と、それが仕事や人づきあいにもたらす苦しみを打ち明けています。
1802年の春、ベートーヴェンは医師のすすめで、ウィーン郊外の村ハイリゲンシュタットに移り住みます。その秋、彼は二人の弟にあてて長い手紙を書きました。耳が聞こえないことを人に知られる苦しみ、死を考えたこと、それでも芸術のために生き続けようと決めたこと。のちに「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるこの手紙は、結局出されることなく、ベートーヴェンの死後に見つかりました。手紙の中で彼は、自分が死んだら病気のことを記録して公表してほしい、という願いも書き残しています。
音は頭の中で鳴っていた
では、どうやって作曲を続けたのでしょうか。鍵になるのは、訓練を積んだ音楽家がもつ、楽譜を見ただけで頭の中に響きを思い描く力です。ベートーヴェンは子どものころから鍵盤楽器や弦楽器を学び、若いころはピアニストとして名を上げました。どの音を重ねればどう響くのか、どの楽器がどんな音色を出すのかは、耳で確かめなくても頭の中で鳴らすことができたと考えられます。
また、彼は思いついた旋律や構想を、こまめにスケッチ帳に書き留める作曲家でした。何度も書き直し、少しずつ形を整えていく。その作業は、ピアノの前で音を出しながら作るというより、紙の上で音楽を組み立てる仕事だったのです。
それに、難聴は一気に進んだわけではありません。弟子のチェルニーは、1812年ごろまではベートーヴェンが言葉も音楽も普通に聞き取れていたと述べています。晩年にも、低い音や突然の大きな音は聞き分けられたといわれます。最後まで完全に聞こえなくなったのか、どの程度の音が届いていたのかについては、研究者のあいだでも見方が分かれています。
会話帳と補聴器
聴力が衰えるにつれて、人との会話はしだいに難しくなっていきました。1818年ごろからベートーヴェンは「会話帳」と呼ばれるノートを使い、相手に言いたいことを書いてもらうようになります。ベートーヴェン自身は声で答えることが多かったため、ノートに残っているのは主に相手の言葉です。会話帳は約140冊が現存し、その多くはベルリン国立図書館に所蔵されています。
音を耳に集めるための、金属製の補聴器も使いました。それでも、聴力の衰えはピアニストとしての活動を難しくし、彼はしだいに人前で演奏しなくなっていきます。
1824年5月、ウィーンで交響曲第9番が初演されたとき、ベートーヴェンは舞台に立ってテンポを示しました。演奏が終わっても客席の熱狂に気づかず、歌手の一人に促されて客席の方を振り返り、ようやく大喝采を目にした、という有名な逸話が伝えられています。
遺髪が語りはじめたこと
難聴の原因は、いまもはっきりしていません。中耳の骨が硬くなる耳硬化症をはじめ、感染症や鉛中毒など、さまざまな説が唱えられてきました。
近年は、ベートーヴェンの遺髪を最新の技術で調べる研究が進んでいます。2023年に発表された研究では、ベートーヴェンのものとされる8つの髪の束を調べ、そのうち5つが同じ一人の男性のもので、ほぼ確実に本人の髪だと判断したうえで、ゲノム(全遺伝情報)を解読しました。その結果、肝臓病になりやすい遺伝的な体質や、亡くなる前の少なくとも数か月間、B型肝炎に感染していたことがわかりました。ところが、難聴の遺伝的な原因は見つかりませんでした。この研究では、それまで鉛中毒説の根拠とされてきた髪の束の一つが、本人のものではなかったことも明らかになっています。
翌2024年には、本人のものと確かめられた2つの髪の束から、通常のおよそ64倍と95倍にあたる鉛が検出されたと報告されました。研究者たちは、この量は単独で死因になるほどではないものの、聴力の低下や胃腸の不調に関わった可能性があるとしています。200年前に作曲家自身が願った「病気の記録」は、いまも少しずつ書き足されているのです。