胃はなぜ自分を消化しない?
粘液のバリアで表面を守り、傷みやすい細胞も数日ごとに入れ替えているからです。
3〜5日
ステーキを食べても、焼き魚を食べても、胃はそれをどろどろの粥のような状態にまで分解してしまいます。その主役が、強い酸である塩酸と、たんぱく質を分解する酵素ペプシンを含んだ胃液です。
ここで、ひとつの疑問が浮かびます。胃の壁そのものも、たんぱく質でできた筋肉や細胞のかたまりです。食べた肉を溶かせるほどの胃液が、なぜ胃自身を溶かしてしまわないのでしょうか。
胃の中は強い酸性
まず、胃の中がどれほど過酷な環境なのかを確かめておきましょう。
胃液の酸の強さは、pHという物差しで表すと、空腹時でおよそ1から2ほど。pHは7が中性で、数字が小さいほど酸性が強くなります。レモン果汁がpH2前後とされますから、胃の中はそれと同じか、それ以上に酸っぱい世界だということになります。
この強い酸には、食べ物と一緒に入ってきた細菌の多くを退治する役目もあります。さらに酸は、ペプシンが働くための「スイッチ」の役割も果たしています。
粘液という見えないバリア
胃が自分を守る第一の仕組みは、表面を覆う分厚い粘液の層です。
胃の内側の細胞は、ねばねばした粘液を絶えず分泌し、胃の壁をすき間なく覆っています。この粘液には、酸を中和する重炭酸イオンという物質が含まれています。そのため、胃の中心部が強い酸性であっても、粘液の層の奥、細胞のすぐそばはほぼ中性に保たれているのです。
つまり胃の壁は、強い酸と直接触れ合っているわけではありません。薄いけれど頼もしい、中性のクッションを一枚はさんで、酸と向き合っているのです。
「溶かす道具」は使う直前に完成する
第二の仕組みは、消化酵素のつくり方にあります。
ペプシンは、胃の細胞の中では完成した形ではつくられません。最初はペプシノーゲンという、まだ働かない状態で分泌されます。それが胃の中で酸に触れてはじめて、たんぱく質を分解するペプシンへと変わるのです。
ハサミにたとえるなら、刃にカバーをつけたまま工場から出荷し、使う場所に届いてからカバーを外すようなものです。もし細胞の中で完成品のペプシンをつくってしまえば、細胞自身が分解されてしまうかもしれません。危ない道具は、使う直前まで眠らせておく。体はそんな安全対策をとっているのです。
こわれる前提で、どんどん入れ替える
それでも、胃の表面の細胞は過酷な環境にさらされ、少しずつ傷んでいきます。そこで第三の仕組みとして、胃は細胞をどんどん新しいものに取り替えています。
胃の表面を覆う細胞の寿命は、わずか3日から5日ほどといわれます。古い細胞ははがれ落ち、奥から生まれた新しい細胞が次々と押し上げられてきます。多少の傷がついても、数日後にはまっさらな表面に生まれ変わっているわけです。
また、細胞どうしはすき間なくぴったりと結びついていて、酸が壁の奥へしみ込みにくくなっています。さらに胃の壁には細かな血管が張りめぐらされ、粘液や新しい細胞をつくるための材料や酸素を絶えず届けています。粘液、酵素の安全装置、素早い細胞の交代、そして豊富な血流。いくつもの守りが重なることで、胃は自分自身を溶かさずにいられるのです。
ただし、このバランスがくずれると、胃の壁が傷つくことがあります。胃潰瘍は、その代表的な例です。かつてはストレスや食生活が主な原因と考えられていましたが、現在ではピロリ菌の感染や一部の痛み止めの薬が、大きな原因になることがわかっています。ピロリ菌を発見したオーストラリアのバリー・マーシャルとロビン・ウォレンは、この業績で2005年にノーベル生理学・医学賞を受けました。マーシャルは、ピロリ菌が胃の病気を引き起こすことを示すため、菌を含む液体を自ら飲み、実際に胃炎になってみせたことでも知られています。