人はいくつのにおいを嗅ぎ分けられる?
正確な数はわかっていません。「1兆種類」という説も出ましたが、その計算には異論があります。
400種類
朝の台所に漂うコーヒーの香り、夕立のあとのアスファルトのにおい、久しぶりに帰った実家の、なんとも言えない懐かしいにおい。私たちは毎日、数えきれないほどのにおいに囲まれて暮らしています。
では、人の鼻は全部でいくつのにおいを嗅ぎ分けられるのでしょうか。素朴な疑問ですが、この問いをめぐっては、科学者のあいだで思いのほか白熱した論争が起きてきました。
長く語られた「1万種類」
人が区別できるにおいは約1万種類。長いあいだ、教科書や雑誌などでよく目にしたのがこの数字です。
その出どころとされるのが、1927年にアメリカの化学者クロッカーとヘンダーソンが考えた、においの分類法です。彼らはにおいを「かぐわしい」「酸っぱい」「焦げくさい」「脂くさい」の4つの要素に分け、それぞれの強さを0から8の9段階で表しました。この組み合わせは9の4乗で6561通り。これがのちに切りのよい「1万」として広まったといわれています。
つまり1万という数は、実際に人がにおいを嗅ぎ分けられる数を実験で数えたものではなく、分類の仕組みから導かれた理論上の数にすぎなかったのです。
「1兆種類」の衝撃と、その反論
2014年、この常識をくつがえす論文が、アメリカの科学誌『サイエンス』に発表されました。ロックフェラー大学の研究チームが、128種類のにおい物質を組み合わせて混ぜたものを用意し、参加者に違いがわかるかどうかを試してもらったのです。その結果をもとに計算すると、人は少なくとも1兆種類のにおいを区別できると結論づけました。
「人の鼻は1兆種類のにおいを嗅ぎ分ける」というニュースは、世界中で大きく報じられました。ところが翌2015年、別の研究者たちが相次いで反論を発表します。この推定は、ごく限られた数の実験結果から、数学的な計算によって一気に「1兆」まで広げたものでした。反論した研究者たちは、その計算の前提や分析の方法を少し変えるだけで、答えが数千程度にも、天文学的な数にもなりうると指摘したのです。
現在では、「1兆」という数字をそのまま受け取るのは難しい、という見方が広がっています。そもそも「においの種類」をどう数えるのかという定義からして簡単ではなく、正確な数は、まだ誰にもわかっていないというのが実際のところです。
鼻の中の約400種類のセンサー
数ははっきりしなくても、鼻がにおいを嗅ぎ分ける仕組みは、かなりわかってきました。
鼻の奥の天井近くには、においを感じる細胞が集まった場所があります。その細胞の表面には、においの分子を受け止める「受容体」というセンサーがついています。人の遺伝子には、この受容体の設計図がおよそ800個ありますが、その半分ほどは働かなくなっていて、実際に使われているのは約400種類とされています。
1つのにおい分子は、ふつう複数の種類の受容体を反応させます。どの受容体がどれくらい反応したかという組み合わせのパターンを、脳が「バラの香り」「焦げたにおい」として読み取っているのです。少ない種類の文字から無数の言葉が生まれるように、約400種類のセンサーの組み合わせからは、膨大な数のにおいを表現できます。この仕組みの解明は、2004年のノーベル生理学・医学賞につながりました。
人の鼻は、思ったより優秀
人の嗅覚は犬などに比べて劣っている、とよくいわれます。ところが2017年、アメリカの研究者が『サイエンス』に寄せた論文で、この考えは19世紀の解剖学者の思い込みから広まった「神話」だと指摘しました。脳の中でにおいを扱う部分が比較的小さいことから、人の嗅覚は退化したと決めつけられてきた、というのです。
実際、2007年に発表された実験では、目隠しをして耳もふさいだ学生たちが、草地に引かれたチョコレートの香りの道筋を、地面に鼻を近づけながらたどることに成功しています。挑戦した人のおよそ3分の2がやり遂げたそうです。私たちはふだん、自分の鼻の実力をあまり意識していないだけなのかもしれません。