レッドカードを考えたのは誰?
イングランドの審判ケン・アストンです。信号機から思いつき、1970年のW杯で導入されました。
1970年
反則をした選手に向かって、審判が胸ポケットからカードを取り出し、高く掲げる。黄色なら警告、赤なら退場です。言葉がわからなくても、スタジアムの観客にもテレビの前の視聴者にも、判定がひと目で伝わります。
いまでは当たり前のこの仕組みですが、150年を超えるサッカーの歴史のなかでは意外に新しく、生まれたのは1960年代の終わりです。考え出したのは、一人のイングランド人審判でした。
言葉の通じない退場劇
ケン・アストン(1915〜2001年)は、学校の教師をしながら審判を務めた人物です。1962年のワールドカップ・チリ大会では、乱闘が相次いで「サンティアゴの戦い」と呼ばれたチリ対イタリア戦の主審を務めました。その後は国際サッカー連盟(FIFA)の審判委員会で、審判の指導にあたります。
転機となったのは、1966年のワールドカップ・イングランド大会でした。7月23日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われた準々決勝、イングランド対アルゼンチン戦。西ドイツの主審ルドルフ・クライトラインは、前半35分、アルゼンチンの主将アントニオ・ラティンに退場を命じます。ところが、主審はスペイン語がわからず、ラティンはドイツ語がわかりません。ラティンはなかなかピッチを去ろうとせず、試合は10分近く中断し、最後は警官に付き添われて退場したと伝えられています。
混乱はそれだけではありませんでした。この試合では、イングランドのボビー・チャールトンとジャック・チャールトンの兄弟も警告を受けていたのですが、二人は翌日の新聞を読んで初めてそれを知った、という話が残っています。当時、警告や退場は、審判が口頭で告げるだけだったのです。
信号機がヒントに
この試合を見ていたアストンは、帰り道、車でロンドンのケンジントン・ハイストリートを走っていました。交差点で信号が黄から赤に変わるのを見て、彼はひらめきます。黄色は「注意」、赤は「止まれ」。この色の意味なら、どの国の選手にも説明なしで通じるはずだ、と。
家に帰って話をすると、妻のヒルダが、シャツの胸ポケットに収まる大きさに黄色と赤の紙を切ってくれたといいます。この2枚のカードの案が、やがてFIFAに採用されることになりました。
最初の赤は1974年
カードが初めて使われたのは、1970年のワールドカップ・メキシコ大会でした。ところが、この大会ではイエローカードは出されたものの、退場者は一人も出ませんでした。退場者のいないワールドカップは、1950年大会とこの1970年大会だけです。つまり、せっかく用意されたレッドカードは、デビューの舞台で一度も使われなかったのです。
ワールドカップで初めてレッドカードが掲げられたのは、次の1974年西ドイツ大会でした。6月14日、ベルリンで行われた西ドイツ対チリ戦で、トルコ人の主審ドアン・ババジャンが、チリのフォワード、カルロス・カセリーに赤いカードを示します。ワールドカップの歴史で最初のレッドカードを受けた選手として、カセリーの名前はいまも語り継がれています。
サッカーの外へ広がる合図
信号機の色を借りたこのアイデアは、サッカーの枠を超えて広がりました。いまではラグビー、ホッケー、ハンドボール、水球、バドミントンなど、さまざまな競技でカードが使われています。競技によっては緑や青、白、黒のカードまで登場し、それぞれ独自の意味をもっています。
アストン自身も、審判の判定を「見ればわかる」ものにすることにこだわり続けた人でした。目立つ色の線審の旗を取り入れたり、交代選手の番号を示すボードを導入したりしたのも、彼の功績とされています。1997年には、サッカーへの貢献が認められ、大英帝国勲章(MBE)を受けました。
言葉の壁が生んだ混乱を、色の力で解決する。胸ポケットの2枚のカードは、世界中の人が一緒に楽しむスポーツにふさわしい、シンプルな発明だったのです。