ミイラは薬として売られていた?
本当です。ヨーロッパでは砕いたミイラが薬として売られ、江戸時代の日本にも届きました。
ミイラといえば、博物館のガラスケースの中で静かに眠る古代の亡骸を思い浮かべるでしょう。ところが数百年前のヨーロッパでは、ミイラは薬局で売られる「商品」でした。粉にして飲んだり、傷に塗ったりする薬として、真剣に処方されていたのです。
しかもこの不思議な薬は、はるばる海を越えて、江戸時代の日本にまで届いていました。
はじまりは「黒い薬」の取り違え
話の発端は、ペルシアの山からしみ出す黒い瀝青(天然のアスファルト)でした。ペルシア語やアラビア語で「ムーミヤー」と呼ばれたこの物質は、傷や骨折に効く貴重な薬として、中東の医学で重んじられていました。
一方、古代エジプトでは、ミイラ作りに黒い樹脂や瀝青が使われることがありました。ミイラの体の中にたまった黒い物質は、見た目がムーミヤーにそっくりです。12世紀ごろから、アラビア語の医学書をラテン語に訳した学者たちが、この2つを取り違えはじめます。ラテン語の「ムミア」は、やがて「ミイラから取れる黒い物質」を指すようになり、ついにはミイラの体そのものを意味するようになりました。英語の「マミー(ミイラ)」も、この言葉から来ています。
エジプトから薬局の棚へ
十字軍などを通じて「ムミア」の評判がヨーロッパに広まると、需要はどんどん膨らみました。エジプトの墓からミイラが掘り出され、砕かれて輸出されていきます。フランス王フランソワ1世は、けがに備えて、ムミアと大黄を混ぜた薬をいつも持ち歩いていたと伝えられています。
本物の古代のミイラは、とても需要に追いつきません。そこで出回ったのが偽物です。処刑された罪人などの遺体を乾燥させ、古いミイラとして売る業者がいたことが、当時の記録に残っています。17世紀になっても、イギリスの科学者ロバート・ボイルが、転んだときや打ち身に効く薬としてムミアを評価していました。
「何の役にも立たない」と言った外科医
もちろん、疑う人もいました。16世紀フランスの外科医アンブロワーズ・パレは、自分も患者に百回はムミアを与えたことがあると認めたうえで、この薬は病人を少しも助けないと断じ、処方をやめました。そして、フランスの薬屋が処刑された罪人の遺体を盗み、かまどで乾かして売っている実態も明かしています。
18世紀に入ると、医師たちのあいだでも疑いの目が強まり、ムミアは次第に処方されなくなっていきます。それでも完全に消えたわけではなく、ドイツの製薬会社メルクの1924年の価格表には、1キログラム12金マルクでムミアが載っていました。
江戸の大名も欲しがった
ミイラの薬は、東アジアでも知られていました。漢字の「木乃伊」は14世紀の中国の随筆集『輟耕録』に見え、手足をけがした人が食べるとたちまち治ると記されています。もっとも、16世紀末の薬学書『本草綱目』は、これを引用しつつ、本当に効くかどうかはわからないと書き添えています。
江戸時代の日本には、オランダ船がエジプトのミイラを運んできました。福岡藩の儒学者・貝原益軒の『大和本草』には「木乃伊」の項目があり、蘭学者の大槻玄沢は1786年に序文を記した『六物新志』で、ミイラを6種の薬物のひとつとして取り上げ、エジプト産を最上としています。さらに、オランダ商館長の1746年の日記には、将軍やほかの大名からミイラ200ポンドの注文があったことが記されています。
日本語の「ミイラ」という呼び名は、16〜17世紀に南蛮貿易を通じて伝わった言葉です。もとはポルトガル語で没薬(ミルラ)を指す言葉で、没薬がミイラの防腐に使われたことや、どちらも薬として珍重されたことから、意味が移ったという説があります。