ピラミッドの労働者はビールで給料をもらった?
半分本当です。給料は麦で支払われ、その一部がビールの原料になる大麦でした。
「古代エジプトの労働者は、ビールで給料をもらっていた」。そんな話を聞いたことがあるかもしれません。ビール好きの人なら、ちょっとうらやましくなる話です。
実は、これはまったくの作り話というわけではありません。ただ、実際に支払われたのはジョッキに注いだビールそのものではなく、パンとビールの「もと」でした。その様子を細かく教えてくれるのが、王の墓を造った職人たちが暮らした村に残る、膨大な記録です。
王墓の職人たちの村
ナイル川の西岸、ルクソールの対岸に、デイル・エル・メディーナという遺跡があります。新王国時代、王家の谷の墓を掘り、壁画で飾った職人とその家族が暮らした村です。村はおよそ400年にわたって使われ、最も大きかったころには68軒ほどの家が並んでいました。
この村からは、文字を書きつけた土器のかけらや石灰岩の破片が大量に見つかっています。こうした「オストラコン」と呼ばれる書き付けは、数千点にのぼります。そこには、給料の支払いや物の売り買い、仕事の出欠まで、日々のできごとが細かく記されていました。この村では、女性も含めて読み書きのできる人が多かったと考えられており、だからこそ、これほどの記録が残ったのです。
給料は「麦」で支払われた
職人たちは国に雇われた働き手で、給料は毎月、穀物で支払われました。記録によると、ふつうの職人が受け取ったのはエンマー小麦4カールと大麦1.5カール。1カールは約77リットルなので、合わせて毎月400リットルあまりになります。班を率いる親方は、エンマー小麦5.5カールと大麦2カールを受け取っていました。
エンマー小麦はパンに、大麦はおもにビールに使われました。つまり、給料の中身はパンとビールの原料だったのです。1人で食べきれる量ではありませんが、これで家族を養い、余った分はほかの品物と交換していたと考えられています。当時のエジプトでは、貨幣はまだ使われていませんでした。麦そのものが、お金の役割も果たしていたのです。
穀物のほかに、魚や野菜、体に塗る油、衣類なども支給されていました。職人たちの待遇は、畑で働く農民の最大3倍ほどだったともいわれます。
欠勤の理由は「ビール造り」
ビールは、当時の人々にとって水代わりの毎日の飲み物でした。現代のビールよりも濁っていて、栄養のある食べ物に近いものだったと考えられています。ビールは各家庭で造られ、その仕事は多くの場合、家の女主人がとり仕切っていました。
そのビール造りが、仕事を休む理由になることもありました。大英博物館にある、ラムセス2世の治世40年(紀元前1250年ごろ)のオストラコンには、職人40人ほどの名前と、仕事を休んだ日、その理由が記されています。「病気」「病気の仲間の看病」「サソリに刺された」「妻が出血した」といった理由に並んで、「ビール造り」という記述が何度も出てくるのです。
ちなみに、職人たちの仕事は8日働いて2日休むという日程でした。古代エジプトにも、ちゃんと「週末」があったわけです。
給料が届かず、ストライキへ
麦が給料である以上、それが届かなければ生活ができません。ラムセス3世の治世29年、紀元前1150年代のこと、支給が大幅に遅れた職人たちは、ついに仕事を放り出しました。
彼らは近くの葬祭殿まで出向いて座り込み、「私たちは飢えている。今月はもう18日も過ぎた」と訴えました。夜にはたいまつを掲げて抗議を続けたといいます。この騒ぎは書記アメンナクトによってパピルスに記録され、職人たちは最終的に、遅れていた給料を受け取りました。このパピルスは、ストライキの様子をくわしく伝える最古の記録ともいわれ、いまはイタリアのトリノ・エジプト博物館に収められています。