ひらがなとカタカナはどうやって生まれた?
どちらも漢字から生まれました。ひらがなは漢字をくずして、カタカナは漢字の一部をとって作られました。
「あ」と「ア」、「か」と「カ」。日本語を書くとき、私たちは漢字に加えて、同じ音を表す二種類の文字を使い分けています。世界の言葉を見わたしても、これほど多くの種類の文字を混ぜて書く言語はめずらしいといわれます。
ひらがなとカタカナは、いったいどこから来たのでしょう。答えをひとことで言えば、どちらも漢字の子どもです。ただし、生まれた場所も、育ての親も、まったく違っていました。
漢字で日本語を書くという難題
もともと日本には、自分たちの言葉を書き表す文字がありませんでした。そこへ中国から漢字が伝わります。けれども漢字は中国語を書くための文字で、日本語の「てにをは」や、ものの名前の響きをそのまま書くのには向いていません。
そこで考え出されたのが、漢字の意味を無視して、音だけを借りる方法です。たとえば『古事記』に収められた歌では、「やくもたつ」という言葉が「夜久毛多都」と書かれています。こうした使い方の漢字は、『万葉集』で多く用いられたことから万葉仮名と呼ばれます。「仮名」とは、正式な文字である漢字(真名)に対して、「仮の文字」という意味です。
ただ、万葉仮名は一音を書くのにも画数の多い漢字を使うので、書くのに手間がかかりました。もっと速く、もっと楽に書きたい。その思いが、新しい文字を生むことになります。
くずして生まれた「ひらがな」
ひらがなは、万葉仮名を筆で速く書くうちに生まれました。漢字を草書体という崩した書き方で書き、それをさらに簡単にしていったのです。「安」から「あ」、「以」から「い」、「宇」から「う」、「衣」から「え」、「於」から「お」が生まれました。
ひらがなが文字として形を整えたのは、9世紀ごろと考えられています。2012年には、京都の平安京跡にある藤原良相の邸宅跡から、9世紀後半のひらがなが書かれた土器が見つかり、話題になりました。
ひらがなは、宮廷の女性たちが和歌や手紙、物語を書くのによく使ったことから「女手(おんなで)」とも呼ばれます。10世紀の初めには最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編まれ、撰者のひとり紀貫之がひらがなで序文を書きました。その貫之が女性になりすまして『土佐日記』をひらがなでつづったのも、この時代のことです。もちろん男性もひらがなを使っており、和歌のやりとりには欠かせない文字でした。
書きこみから生まれた「カタカナ」
一方、カタカナが生まれたのは、お寺の中でした。9世紀の初めごろ、奈良の寺院の僧侶たちは、中国から伝わった漢文の経典を日本語で読むために、行と行のあいだのせまい余白に、読み方や送りがなを小さく書きこんでいました。
そこで使われたのが、漢字の一部分だけを取り出した略字です。「阿」の左側から「ア」、「伊」の左側から「イ」、「宇」のかんむりから「ウ」、「江」の右側から「エ」が生まれました。「片仮名」の「片」は、ここでは「不完全な」「一部分の」という意味です。すき間にすばやく書けて、本文の漢字とも見分けやすい。メモ用の記号として、これほど便利なものはありませんでした。
学問の世界で生まれたカタカナは、やがて漢字とまぜて文章を書く「漢字片仮名交じり文」にも使われ、仏教書や学問の書物、のちには法令などの硬い文章を担うようになっていきます。
ひとつの音に、ひとつの字
ところで、昔のかなは、ひとつの音に対して何種類もの字がありました。たとえば「か」を書くのに、「加」をくずした字のほかに「可」や「閑」をくずした字も使われていたのです。こうした、いまは使われなくなったかなを「変体仮名」と呼びます。
ひとつの音にひとつの字、という現在の形に整えられたのは、1900年(明治33年)のことです。小学校で教えるかなの字体が国によって定められ、それ以外の字は少しずつ日常から姿を消していきました。千年以上にわたって自由に書かれてきたかなが、教育のために統一されたのは、意外と最近のことなのです。