浮世絵はなぜヨーロッパで人気になった?
開国で日本の美術品が大量に渡り、平らな色面や大胆な構図が画家たちの目に新鮮に映ったからです。
231点
江戸時代(1603〜1868年)の浮世絵は、役者や美人、名所の風景などを描いた木版画で、町の人々が気軽に買い求める身近な印刷物でした。ところが19世紀の後半、この浮世絵がヨーロッパで熱狂的に迎えられ、印象派の画家たちの絵を変えるほどの影響を与えます。日本の美術に対するこのブームは「ジャポニスム」と呼ばれ、1872年にはフランスの批評家フィリップ・ビュルティがこの言葉を使っています。
それにしても、なぜ遠い日本の木版画が、芸術の都パリで人気になったのでしょうか。
「包み紙」から始まった?
よく知られているのが、こんな話です。日本から輸出された陶磁器の包み紙として、浮世絵が使われていた。それを見つけたヨーロッパの人々が、その美しさに驚いた――。浮世絵の価値を見出したのは西洋人だった、という文脈でもしばしば語られます。
ところが、この話は根拠がはっきりしません。東京の太田記念美術館の学芸員が検証したところ、話のもとになっているのは、1905年にフランスの美術史家が書いた逸話でした。1856年、フランスの版画家フェリックス・ブラックモンが、知り合いの刷り師の仕事場で、磁器を詰めた箱の仕切りとして使われていた小さな本を見つけた。それが葛飾北斎の絵手本『北斎漫画』だった、というものです。
ここで見つかったのは、1枚刷りの浮世絵ではなく、綴じられた1冊の本でした。この逸話自体も伝聞にすぎないと指摘する研究者がいますし、1856年という年を疑う声もあります。少なくとも、浮世絵版画が陶磁器の包み紙として大量に海を渡っていたことを示す記録は、確認されていないのです。
万国博覧会という窓
浮世絵がヨーロッパで広く知られるようになった背景には、もっと大きな流れがありました。1850年代に日本が開国し、1858年に欧米諸国との通商条約が結ばれると、日本の品々がヨーロッパへ渡るようになります。1862年のロンドン万国博覧会では日本の工芸品が紹介され、人々の関心を集めました。
決定的だったのが、1867年のパリ万国博覧会です。日本が初めて正式に参加した万博で、江戸幕府に加えて薩摩藩と佐賀藩がそれぞれ出展しました。幕府の展示には磁器や青銅器などとともに、北斎や歌川国貞らの浮世絵も並びました。会場に設けられた茶屋では、柳橋の芸者たちがこまを回したり、きせるをくゆらせたりする姿が、公式の展示以上の人気を呼んだといいます。
その後、パリでは日本美術を扱う美術商が活躍するようになります。ドイツ生まれの美術商ジークフリート・ビングや、パリに店を構えた日本人の林忠正らが、浮世絵や工芸品を次々にヨーロッパへ紹介していきました。
画家たちが驚いたもの
画家たちが浮世絵に引きつけられたのは、それが西洋の絵画とはまったく違うルールで描かれていたからです。ルネサンス以来、ヨーロッパの絵画は陰影で立体感を出し、遠近法で奥行きを表すことを大切にしてきました。それに対して浮世絵は、くっきりした輪郭線と、影のない平らな色面で描かれています。主役を画面の端に寄せたり、手前のものを大胆に切り取ったりする左右非対称の構図や、高い所から見下ろす視点も、西洋の画家には新鮮でした。
クロード・モネもそんな画家の一人でした。1876年には、妻に日本の打掛を着せ、壁いっぱいにうちわを散らした『ラ・ジャポネーズ』を描いています。モネは浮世絵の熱心な収集家でもあり、1926年に亡くなるまでに集めた日本の版画は231点にのぼりました。北斎、広重、歌麿を中心としたそのコレクションの多くは、いまもフランス北西部ジヴェルニーにあるモネの家の壁を飾っています。
ゴッホが写した広重
浮世絵にもっとも深くのめり込んだ画家といえば、フィンセント・ファン・ゴッホでしょう。ゴッホはベルギーのアントワープにいたころから浮世絵を集めはじめ、パリでは弟テオとともに、主にビングの店から600点以上を買い集めました。
1887年には、歌川広重の『名所江戸百景』から「亀戸梅屋舗」と「大はしあたけの夕立」を、油絵で模写しています。原画にはない漢字の飾り枠まで描き加えたその絵からは、見慣れない日本の文字さえも、デザインとして楽しんでいた様子がうかがえます。
江戸の町では日常の品だった浮世絵は、ヨーロッパの画家たちにとって、絵画の常識を揺さぶる新しい「教科書」になりました。浮世絵の人気は、珍しい異国の品への好奇心だけでなく、新しい表現を求めていた画家たちの渇きに、ぴたりと応えるものだったのです。