「いろは歌」は誰が作った?
わかっていません。空海の作という説が有名ですが、言葉の特徴から、空海の時代より後にできたと考えられています。
「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」
「いろは歌」は、47のかなをすべて一度ずつ使い、しかも意味の通る歌になっている、という驚くべき作品です。漢字をまじえて書けば「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」。花は美しく咲いてもやがて散ってしまう、この世に永遠に変わらないものなどない、といった仏教の無常の考えを歌ったものと受け取られてきました。
これほど見事な歌を、いったい誰が作ったのでしょうか。
「弘法大師の作」という言い伝え
よく知られているのが、真言宗を開いた空海、つまり弘法大師(774〜835年)の作だという説です。空海は書の達人としても名高く、「弘法も筆の誤り」ということわざが生まれたほどの人物ですから、いかにもありそうな話に思えます。
この説は、ずいぶん古くからありました。室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書『河海抄』には、平安時代後期の学者、大江匡房(1041〜1111年)の言葉として、いろは歌は弘法大師の作である、と記されています。また、平安時代後期の僧、覚鑁(かくばん)は、いろは歌を仏教の経典『涅槃経』にある「諸行無常」で始まる一節を、日本語に移したものだと説明しました。
言葉が語る「生まれた時代」
ところが、歌に使われている言葉そのものを調べると、空海の時代には合わない点が見えてきます。
明治時代の国語学者、大矢透は、いろは歌のような七五調を4回くり返す形の歌は、空海のころにはまだなかったと指摘しました。さらに、空海の時代の日本語では、たとえば「こ」の音に2種類の区別があったのに、いろは歌にはその区別が見られません。
似たような手習いの歌と比べても、同じことがわかります。平安時代の初めごろにできたとされる「あめつちの詞」は48文字で、ア行の「え」とヤ行の「え」を別の音として書き分けています。いろは歌は47文字で、この区別がありません。また、970年に源為憲がまとめた子ども向けの教養書『口遊(くちずさみ)』には、別の手習いの歌が載っているのに、いろは歌は出てきません。
こうしたことから、いろは歌ができたのは、10世紀の終わりから11世紀の半ばごろと考えられています。空海が亡くなってから、150年以上あとのことです。いまわかっている最も古い記録は、1079年に書かれた『金光明最勝王経音義』という仏典の辞書で、いろは歌が万葉仮名で、7文字ずつ区切って書かれています。結局のところ、本当の作者はわかっていません。
隠されたメッセージ?
いろは歌には、こんな話もあります。7文字ずつ区切って並べたとき、各行の最後の文字をつなげて読むと「とかなくてしす」、つまり「咎(とが)無くて死す」、罪もないのに死んでいく、と読めるというのです。
ここから、無実の罪で亡くなった人物が作者だという推理も生まれました。ただ、大矢透はこれを、こじつけにすぎないと退けています。偶然そう読めるだけと考えるのが自然でしょう。
作者不明でも、暮らしの中に
作者はわからなくても、いろは歌は日本人の暮らしに深く根づきました。中世から江戸時代にかけては、辞書の見出しや番号付けに「いろは順」が広く使われ、子どもたちは手習いでいろはを覚えました。江戸時代には、いろはの文字ごとにことわざを割り当てた「いろはかるた」も生まれ、遊びながら文字に親しめるようになります。音楽の「ハ長調」の「ハ」も、いろはの3番目の文字から来ています。