江戸の人は毎日お風呂に入った?
家に風呂はなくても、町の銭湯(湯屋)に毎日のように通う人が多かったといわれます。
600軒
江戸の町人が暮らした長屋には、かまどや水がめはあっても、お風呂はありませんでした。では、江戸の人たちは体を洗わずに過ごしていたのかというと、まったく逆です。町のあちこちにあった「湯屋(ゆや)」、いまでいう銭湯に、毎日のように通っていたといわれています。
家にお風呂がないからこそ、町に大きなお風呂がある。江戸の入浴は、そんな仕組みで成り立っていました。
家康の入城の翌年に、最初の銭湯
江戸で最初の銭湯は、徳川家康が江戸に入った翌年の1591年(天正19年)、伊勢与一という人物が、いまの東京駅に近い銭瓶橋のたもとに開いたものだとされています。入浴料は永楽銭1枚でした。
もっとも、初期の銭湯はいまのようにたっぷりの湯につかるものではなく、湯気で体を温める蒸し風呂に近いものだったとされています。やがて湯船につかる形が広まり、町の発展とともに銭湯も増えていきました。19世紀初めの記録には500軒あまり、幕末には約600軒を数えたといわれます。100万人前後が暮らしたとされる大都市で、どの町内にも1、2軒はある身近な存在だったのです。
湯気の向こうの「柘榴口」
江戸の湯屋の造りは、脱衣所、洗い場、湯船という並びで、現代の銭湯とほとんど変わりません。大きく違うのは、洗い場と湯船のあいだにあった「柘榴口(ざくろぐち)」です。鴨居を低く下げた入口で、客はかがんでくぐり抜け、その奥の湯船に入りました。
入口を低くしたのは、湯気と熱を逃がさないためです。中は湯気がもうもうと立ちこめて薄暗く、先客に「冷えものでござい」(冷えた体が触れたらごめんなさい)とひと声かけてから湯船に入るのが作法だったといわれます。男湯の2階には座敷があり、湯上がりの客が茶を飲んだり碁や将棋を打ったりする社交の場にもなっていました。
料金は手ごろでした。幕末の風俗を記録した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によると、1841年(天保12年)の湯銭は大人8文です。物価の上がった幕末には値上がりしましたが、それでも庶民が日常的に通える値段でした。
毎日通いたくなる理由
江戸っ子が湯屋に通った理由のひとつは、町のほこりです。江戸は風が強く、舗装されていない道から土ぼこりが舞い上がりました。汗と土ぼこりにまみれた体は、湯に入らないとさっぱりしません。仕事が終わると湯屋へ向かうのが、職人たちの日課だったといいます。
**日に何度も入る人のために、「羽書(はがき)」と呼ばれる1か月有効の定期券まで売られていました。**それだけ足しげく通う客がいたということです。
一方で、自宅に風呂を持つ家はごくまれでした。水も燃料の薪も貴重で、大量の湯を沸かすのは大仕事です。そのうえ江戸は大火の多い町で、火の扱いには厳しい目が向けられていました。内風呂を持てたのは、裕福な商家や武家などに限られていたと考えられています。
男女いっしょの湯と禁止令
江戸の湯屋では、男女が同じ湯船に入る「入込湯(いりこみゆ)」も珍しくありませんでした。風紀の乱れを心配した幕府は、1791年(寛政3年)、松平定信による寛政の改革のなかで男女の入込湯を禁じます。ただ、定信が失脚すると元に戻す湯屋もあり、天保の改革で改めて取り締まられました。『守貞謾稿』は、江戸の湯屋の多くは男女別、上方では混浴が多いと記しています。
それでも地方では混浴が残りました。幕末に来航したペリー艦隊の一行は、下田の公衆浴場で男女がいっしょに入浴する姿を見て驚き、遠征記のなかで日本人の慎みに疑問を投げかけています。明治に入ると、西洋の目を意識した取り締まりが強まり、東京府は1872年(明治5年)に男女の混浴を禁じます。こうして混浴の銭湯は、しだいに姿を消していきました。