侍はなぜちょんまげ?
兜の蒸れを防ぐために頭頂を剃ったのが始まりという説が有力です。江戸時代には庶民にも広まりました。
時代劇に登場する侍といえば、額から頭のてっぺんまでをつるりと剃り、残した髪を後ろでまとめて頭の上に載せた髪形です。私たちはこれをひとまとめに「ちょんまげ」と呼んでいます。
いまの感覚からすると、ずいぶん手間のかかる、不思議な髪形です。わざわざ頭の真ん中だけを剃るのには、どんな理由があったのでしょうか。
「ちょんまげ」は2つの部分でできている
あの髪形は、2つの部分に分けられます。額から頭頂にかけて剃り上げた部分が「月代(さかやき)」、残した髪を束ねて結ったものが「髷(まげ)」です。
実は「ちょんまげ」という言葉は、もともと髪形全体を指すものではありませんでした。髪が少なくなった年配の人などが結う、小さな髷のことを呼んだ言葉です。細く折り曲げた髷の形が、文字の「ゝ(ちょん)」に似ていたことからこう呼ばれたとされています。江戸時代の男性が一般に結っていたのは、銀杏の葉のような形の「銀杏髷(いちょうまげ)」などでした。
兜の蒸れを防ぐため?
では、なぜ月代を剃ったのでしょうか。最も広く知られているのが、兜にまつわる説です。鉄の兜をかぶって戦うと、頭に熱がこもって蒸れ、のぼせてしまう。そこで頭頂の髪を剃り、熱を逃がしたというのです。
中世の兜には、頂上に「天辺(てへん)の穴」と呼ばれる穴が開いているものがあり、その真下の髪を剃ったともいわれます。「さかやき」という言葉も、気が逆さに上るのを抜く「逆息(さかいき)」がなまったものだという説があります。
ただし、起源はこれだけではありません。平安時代の貴族が冠や烏帽子をかぶるとき、額の髪が見えないように半月形に整えたことに始まる、という説もあり、はっきりしたことはわかっていません。平安時代末期の1176年には、貴族の九条兼実が日記『玉葉』に月代のことを書き残しており、この髪形がかなり古くからあったことは確かです。
意外なのは、その手入れの方法です。月代は剃刀で剃るのではなく、16世紀後半の天正年間ごろまでは、毛抜きで1本ずつ抜いていたといわれます。想像するだけで痛くなりそうです。
戦場の習慣から「大人のしるし」へ
はじめのうち、月代は戦いのときだけのもので、戦が終わると髪を伸ばして元に戻していたと考えられています。ところが、室町時代に応仁の乱などで戦乱が長く続くと、月代を剃ったままにしておくのが当たり前になっていきました。戦国時代には、月代は勇ましさのしるしにもなったといいます。
戦のない江戸時代になっても、この習慣は消えませんでした。それどころか、武士だけでなく町人や農民にも広まり、男性は成人の儀式である元服のときに月代を剃るのが習わしになりました。剃った部分の広さにも流行があり、元禄のころまでは頭上を広く剃り上げ、時代が下るにつれて狭くなる傾向があったとされます。
毎日のように伸びてくる月代を剃り、髷を結い直すのは、自分ではなかなか大変です。そこで、髪を結うことを仕事にする「髪結」が登場し、町の髪結床は人々が集まる社交の場にもなりました。
「散髪してもよい」というお触れ
この髪形に終わりが訪れたのは明治時代です。1871年(明治4年)、政府は「散髪脱刀令」を出しました。いわゆる断髪令ですが、その中身は「髪形は自由にしてよい」というもので、髷を禁止したわけではありませんでした。
それでも、文明開化の流れのなかで、髷を落とした「ざんぎり頭」は新しい時代の象徴となります。男性をまねて髪を短く切る女性まで現れ、東京府が1872年に女性の断髪を禁じるお触れを出すという一幕もありました。そして1873年に明治天皇が髷を落とすと、役人などを中心に断髪する人が一気に増えていきました。